『ナショナリズムとジェンダー』からジェンダー観を考える1
今回は、上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』1998 青土社 からナショナリズムとジェンダーの関りについて考えていきたいと思います。
Ⅰ国民国家とジェンダー
1 戦後史のパラダイム・チェンジ
戦後史をどう見るかについてはいくつかのパラダイム(思考の枠組み、主張)があります。
①「断絶」史観
②「連続」史観
上記2つと比較されるものとして
③「ネオ連続説」
があります。
①「断絶」史観
戦前と戦後が「断絶」されたものという見方をする者です。
戦前の抑圧的な社会構造が戦後民主化によって払しょくされたというように主張されます。
言い換えると、「「抑圧から解放へ」の発展史観」(上野、1998)と言えます。
この史観は伝統などが、説明できないもの、難しいものを説明するための都合の良いものとされます。
②「連続」史観
これは「戦前と戦後の連続性を強調する」(上野、1998)史観です。
日本社会が大正デモクラシーから戦後改革まで連続的に発展してきたと考えます。そして、戦争は「近代化プロジェクト」を中断させたイレギュラーと考えています。
以上①、②で共通していることは、「戦後体制の正当化のために戦時下の状況をなにがしか「逸脱」視、「異常」視している点」(上野、1998)です。
③「ネオ連続説」
「ネオ連続説」は「「戦時体制」を逸脱ではなく「近代化プロジェクト」の連続用でとらえるという見方」(上野、1998)です。
つまり、この説では、戦争を逸脱ではなく、日本が近代化するうえで、あり得る流れであったと、どちらかというと戦争が起きたことを肯定的、自然に見ているということです。
「ネオ連続説」は①、②の問題点を解決するよう主張された説であるため、現在はこの説が主流となっています。
2 女性の国民化と総動員体制
日本において女性が国民化されたのは戦後であり、戦前では、国民化されていない中途半端な存在であったといえます。
まず女性の国民化の媒体には、
①国家(政治、政策など)
②思想・言説(政治家の主張、メディア等)
③運動、実践(女性運動など)
④生活、風俗
が考えられます。今回上野氏は、①、③を基に女性の国民化を考察しています。
女性の国民化においては方法が、
「参加型」「分離型」の2つが存在します。
2-1 「参加型」
「参加型」は主に連合国で取られた政策であり、「「性別役割分担」そのものを解体すること」(上野、1998)です。これは、性別によってするべきこと、振る舞い方といった性によって役割を分けることをやめることです。
この政策は戦域においては「兵役」が「国民化」の基準となりました。
つまり、国のために戦って死ぬことが出来る者は国民であり、国のために戦うことが出来ない者は国民ではないということです。
そのため「参加型」の国では女性の兵士化が求められました。
しかし、「性別不問の戦略は一見平等の達成のように見えるが、その中で生産や戦闘をになった女性たちは「公的領域」が男性性を帰順されている限り、「二流の労働力」「二流の戦士」であるということに甘んじなければならない」(上野、1998)と言います。
つまり、「参加型」でも男と同等の存在として認められることはありません。
2-2 「分離型」
「分離型」は主に枢軸国の間で取られた政策です。
これは「「性別役割分担」を維持したまま市領域の国家化をめざすこと」(上野、1998)です。
戦時期においては公的活動が制限される一方、「再生産者(生殖)と生産者(労働)」(上野、1998)としての役割が銃後の女性に期待されました。
「分離型」では、「「女らしさ」の規範を受け入れなければならないが、その反面、ゲットーの中の自立性領域を獲得することも可能になる」(上野、1998)。
つまり、「分離型」と「参加型」を比較すると「差異か平等か」のディレンマを抱えていることがわかります。
「分離型」では性的役割分担による差別であり、
「参加型」では無理やりな平等であり、真の平等ではなく、女性は二流であるとみなされています。
そのため、どちらが良くてどちらが悪いというような二項対立のような考え方は、できませんし、するべきではないといえるでしょう。
つづきは、次回の記事へ回したいと思います。
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参考:上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』1998 青土社