『ナショナリズムとジェンダー』からジェンダー観を考える3
今回も前回に引き続いて、上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』1998 青土社からジェンダーとナショナリズムの関係について考えていこうと思います。
前回の記事はこちら↓
- Ⅲ 「記憶」の政治学
- 4-1 日本版「歴史修正主義者」たち
- 4-2 「実証史学」と学問の「客観性・中立性」神話
- 4-3 オーラル・ヒストリーをめぐって
- 5-1 歴史の語られ方
- 5-2 被害者の「現実」の構成
- まとめ
Ⅲ 「記憶」の政治学
4-1 日本版「歴史修正主義者」たち
1990年代、「新しい歴史教科書をつくる会」(つくる会)による自虐史観の是正の取り組みによって、「慰安婦」記述を削除することが要求されました。
つくる会をはじめとする歴史修正主義者が「慰安婦問題」主張していることは以下の4つです。
①「「慰安婦」強制連行を裏付ける実証資料がない」(上野、1998)点
つまり、文書資料が残っていないということです。
②「文書資料至上主義の実証私学の立場から、被害者の証言の信頼性を疑う」(上野、1998)という点
③「性の暗黒面を中学生に教えるのは適切ではない点」
この主張は、中学生がイノセントであるという立場に立っています。
しかし、これは「一方でメディアの生情報の氾濫にさらしながら、他方で子供たちの「無垢」を想定するのはたちの悪い偽善というほかない」(上野、1998)と上野氏は述べています。
またこの③の主張には性はよいものであるという前提に立っていますが、
「性を「生の歓び」の表現に吸うことも可能だが、他方で「他者の蹂躙」のために使うことも、残念ながら可能である。」(上野、1998)
そのため、この主著はおかしいといえるでしょう。
④「「自己悪逆史観」からいい加減に脱却して、自国に誇りを持てる正史を」(上野、1998)という点
しかし「「正史」はたった一つの正当化された「国史 national history」を作り出すことで「国民」の間にある多様性や対立をおおいかくす」(上野、1998)。
そこで「慰安婦」問題をめぐってジェンダー氏が提起した課題とは
①「実証史学」と学問の「客観性・中立性」神話
でした。
4-2 「実証史学」と学問の「客観性・中立性」神話
現在の「慰安婦」問題をめぐる争いでは、「強制連行はあったか、なかったか」「日本軍の関与を示す文書は存在するか」という実証性という面で争われています。
しかし、この争いの背景には、「歴史的事実というものが誰が見ても寸分違わないすがたで客観的実在として存在しているかのような史観」(上野、1998)があると思われます。
つまり、「実証史学」には「文書資料中心主義」と飼料への信頼性への絶対視があります。
「公」文書は支配者の権力、権威によって正統化された文書であるため、
「支配権力の側が自己の犯罪を隠蔽したり正当化したりする動機づけを持っているところでは、この史料の「信憑性」もまた問われるべきであろう」(上野、1998)
4-3 オーラル・ヒストリーをめぐって
文書資料中心主義に基づく「書かれた歴史」は男性による歴史の記述です。また男性による女性の記述です。
「男によって書かれた女についての表象は、女についてどんな「事実」も伝えないが、男が女について何を考え何を幻想していうるかについての男の概念については雄弁に語る。」(上野、1998)
女性史にとって最大の課題とは、女性にいかに語らせるかです。
そこで女性史は、口述によるオーラルヒストリーを重視しました。
オーラル・ヒストリーには、問題もあります。
オーラル・ヒストリーの問題点
①忘却や記憶違い
②非一貫性(つじつまが合わないことがあります)
③記憶の選択制(何を言うか言わないか、どのように言うかを話し手が決めることが出来ます)
④あくまで現在からの過去の想起である
しかし、「正史」にもオーラル・ヒストリーがが持つ問題点がすべて含まれています。
「正史」の問題点
①忘却や記憶違い(あったことをなかったことにする)
②非一貫性(「正史」の中にも存在します)
③記憶の選択性(権力者の行為は記録され、民衆や被抑圧者などのお記憶は残されていないケースが多数あると思われます)
④あくまで現在からの過去の想起である
「時代と解釈が変わるにつて、常に現在における書き残しの中に置かれている」(上野、1998)。
つまり、再審の連続であるといえます。
5-1 歴史の語られ方
歴史が過去の再構成であるとすると、歴史の語られ方が問題となります。
「当事者の空白の過去、抑圧された記憶の回復という大きな変化が起きた。それがどんなネガティヴな記憶であれ、ぞ分の過去を「意味あるもの」として一図けることで、彼女たちは自己の全体像を回復したといえるだろう。」(上野、1998)
この「語り」においては加害者と被害者の間で落差があるといいます。
つまり、加害者と被害者の間には、「まったく異なったふたつの「現実」が生きられており、当事者はひとつの「事実」を共有さえしていない」(上野、1998)。
むしろ複数の「現実」が存在しています。
5-2 被害者の「現実」の構成
被害者の「現実」は被害者の語りによって構成されます。
すなわち、「語ることで語り手は「被害者」としての主体形成をする」(上野、1998)ということです。
オーラル・ヒストリーにおいて語りには、被害者の「現実」がとぎれとぎれの断片として現れます。
「女性史にとっては、オーラル・ヒストリーのこの非一貫性こそが、「支配的な現実」の亀裂を示す決め手となる」(上野、1998)。
この語りの場では、聞き手にとって都合の良い「理想の被害者」が作られることがあります。
例えば、殺人事件の被害者の美談を集めて必要以上に美化しようとすることなどが挙げられると思います。
このように被害者の被害者性を増させる行為は、加害者への加担に他ならないと思います。
まとめ
以上、これまで3回にわたってジェンダーとナショナリズムについて考えてきました。
この世界には、一つの「現実」ではなく、人によって異なった複数の現実が存在しているということが印象的でしたね。
もし、この本について気になった方がいれば、是非読んでみてください。
参考:上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』1998 青土社