socialandstudy’s diary

様々な本の内容を紹介します。

教師にとっても子どもにとっても納得の指導とは?

今回は、めがね旦那『その指導はしない』2021 東洋館出版会から、教師にとっても子どもにとっても納得、合理的な指導とはどのようなものか考えていきたいと思います。

第1章 学習規律編

あいさつの必要性

めがね旦那氏はあいさつの必要性について疑問を呈しています。

そもそも、授業前後のあいさつの目的とは何でしょうか?

一般的な答えとしては、授業と休み時間の切り替えを行うこと、すなわち、スイッチのオン・オフの機能を果たすものであると考えられていると思います。

しかし、ここで、あいさつによって子どもの気持ちが切り替わっているのかという疑問が生じます。

チャイムや時間がそれを行っており、行われるべきであるとめがね旦那氏は主張しています。

実際に、めがね旦那氏のクラスでは、挨拶を取り入れてはいませんが、子どもたちは、休み時間から授業への切り替えは出来ているそうです。

また、1日6時間の授業で年間200日授業日があると考えると、年に1200回挨拶をしなければなりません。

その様な状態では、あいさつは非常に形式的なものになってしまい、一般的な目的を達成することが出来ないのではないかと思います。

 

児童の主体性は教師への忖度

現在の教育では、主体的・対話的で深い学びが目指されています。

そのため、学校内で教師は、子どもたちに主体性を発揮することを求めます。

しかし、その主体性が学校の中では教師の都合の良いものが想定されているのではないかとめがね旦那氏は主張します。

すなわち、児童が教師の想定している主体性を想定して、それに合ったように主体性を発揮しているのではないかということです。

なぜなら、授業内で子どもたちが主体的な学びをするということは、「極論を言えば、「その活動をしない」という選択さえ認められるべき」(めがね旦那、2021)(P.33)だからです。

しかし、実際にはそれは許されないことから教育現場での主体的な学習が真の主体的な学習にはなりません。

 

第2章 学習指導編

宿題は残業と同じ

めがね旦那氏は宿題を課すことを好んでいません。

その理由としては、

①宿題は不平等の極み

②宿題込みの学力形成は授業者の怠慢ではないか

③宿題の点検等の業務は他業務を圧迫する

という理由をあげています。

 

①宿題は不平等の極み

子どもは家庭環境、学習環境、学力などに、それぞれ差異があるにも関わらず、同一の内容の宿題を強いることは不平等ではないでしょうか。

家では、親に宿題を見てもらえ、自分の部屋を持ち、学習塾などを利用して学習することが出来る子どもがいる一方で、家に親がいることが少なく、自分の部屋を持たず、学習塾にも通えない子どもが果たして同一の内容をこなすことが出来るのでしょうか?

 

②宿題込みの学力形成は授業者の怠慢ではないか

「本来、学校つけたい学力は学校の中でつけさせるべき」(めがね旦那、2021)(P.54 )というのがめがね旦那氏の主張です。

復習として宿題を課すべきという主張も存在しますが、めがね旦那氏はその復習すらも授業内に取り入れるべきではないかと述べています。

 

③宿題の点検等の業務は他業務を圧迫する

これは言うまでもありません。特に小学校の担任にとって、宿題の点検は大きな負担になっています。

 

以上の理由からも宿題を課すことは、教師、子どもたちにとっても負担であると言えれるでしょう。

 

黒板の内容をノートに写す意味

授業といえば、黒板の内容をノートに写すということを想像する方が多いのではないでしょうか。

しかし、めがね旦那氏は、黒板の内容を必ずしもノートに写す必要が無いのではないかと主張しています。

授業内容を覚えるという点から考えても黒板の内容をそのままノートに写しても覚えられるのかという疑問が残ります。

また、ノートを取る速度には個人差があるため、速度が遅い児童は教師の話を聞きながらノートをとらなくてはならない場合があると思われますが、それは、難しい作業なのではないでしょうか。

こうして、授業についていける子どもとついていけない子どもが出来ていく側面もあると思います。

そのため教師の話を聞く時間とその内容や板書を基に自分なりにノートにまとめる時間に分けることなどが必要であります。

 

子どもは教師の自己実現の道具ではない

教師の仕事は「やりがい」を基にしているからこそ教育活動が驚異の自己実現の道具になってしまうことがあります。

具体的には、運動会での団体競技、卒業式の掛け合いなどで必要以上に質の高いものを求め練習させている場合などが挙げられます。

これは教師の「成功させてあげたい」「自信をつけさせてあげたい」という良心などからきている場合があるため厄介です。

つまり、伝統を壊さないため、、自己の指導で成功させたいという気持ち、見栄などの自己実現的な目的で指導してしまうという危険性を常にはらんでいます。

 

人権侵害の二分の一成人式

二分の一成人式は現在、全国で行われている学習活動であり、自分の生い立ちを振り返り、10年間の感謝の気持ちを親に伝えるという内容が一般的となっています。

めがね旦那氏は、この活動を「危険な活動」であると位置づけています。

なぜなら、ネグレクトや虐待、不仲などで親に感謝することが出来ない児童が存在することが容易に想像つくからです。

そのような児童に親への感謝の気持ちを強いることは体罰に他なりません。(実際に実際に体罰として位置付けられているわけではありません)

このような危険を持つ二分の一成人式を行う背景には、

「「すべての子どもたちは過程で十分な愛情を受けて育てられている」というような前提」(めがね旦那、2021)(P.66)があります。

 

第3章 生活指導編

真面目な子が損をする教室

教師はついつい「気になる子」(授業を受けてくれない子ども、トラブルが多い子ども)ばかりを気にしてしまいます。

そのため、「気にならない子」(真面目な子ども、問題を起こさない子ども)には、目を向けることを忘れてしまいがちです。

このような状況下では、「気にならない子」が問題を抱えていたとしても教師は気付くことが出来ず、そのままになってしまいます。

 

ごめんねいいよ指導

ごめんねいいよ指導とは、喧嘩等のトラブルの際に、教師が、加害者に「ごめんね」、被害者に「いいよ」と言わせる問題解決の方法のことです。

この指導の目的は、トラブルに区切りをつけることで子供に気持ちの切り替えを行わせるという目的と教師が一応の問題解決はしたという対面を保つための指導とも取れます。この指導には弊害が存在し、それは子どもに認識に影響を与えます。

それは、「このような指導を繰り返されてきた子どもたちは「ごめんねと言えば、いいよと言ってもらえる」という誤った学びをすることがある」(めがね旦那、2021)(P.102 )ということです。

これが対人関係の歪みにつながることもあります。

そのため、トラブル等の解決では、双方の話を聞き、謝罪をさせますが、それに対して、被害者の気持ちが落ち着き、切り替えられるまでは、許しを強要しないことがひつようであるとめがね旦那氏は、述べています。

 

まとめ

以上よりめがね旦那氏が主張するいくつかの合理的な指導形態について紹介してきました。

現在の教育現場には様々な問題が起きています。(すべてが教師のせいではないと私は考えます)

それを解決する糸口になるものもありそうですね。

興味がある方は是非読んでみてください。